第26話  Mさんから庄内竿をいただいた   平成25年12月31日  

 平成25年の6月の初旬の頃だったか、北港共同火力岸壁でアジ釣りしていたMさんをお見かけした。挨拶をすると「近いうちに家に来ないか?」とお誘いを受けた。
 Mさんと知り合ったのは、かれこれもう10年近くもなるだろうか? 色んな釣りを楽しんでいる人だが、中でも黒鯛の団子釣を得意とする人である。黒鯛を釣る事が多いと云う事で、次第に会う度に釣果情報を教え合う仲になって行った。
 ある時「庄内竿を持っていないですか? 持ってたら一度見せて貰えないですかネェ!」と云った事があった。「何本か持っているが、もう何十年も使ってないから、どうなってるかなあ!」と云う。それでも是非にと「一度見て見せて下さい!」と無理にお願いすると「では近い内にいらっしゃい」と云う。「昔はあんな重い竿をクロを釣りたいばっかりに我慢して、何時間も振り回して、釣ったいたものだっけ! 今じゃあ、あんな重い竿、何時間も持てねえなあ!」と云う。
 それから数日して電話で都合を伺って自宅に赴いた。目的の庄内竿は風通しの良い薄暗い廊下の上に竿棚が作られおり、そこに保管してあっった。薄暗く風通しが良い廊下は、庄内竿の置き場としてはすこぶる良い場所と云える。竿は埃が溜まり大分汚れてはいたが、竿自体はしっかりとした作りであったので痛みはほとんどない。「この竿は全部、若い時に鶴岡の老舗の菅原釣具店で買ったものだ」と云う。鶴岡の菅原釣具店と(鶴岡市本町2丁目2−4)云えば鶴岡でも明治時代から続く最も古い老舗の店である。初代は明治の名竿師上林義勝の最後の弟子と称していた老舗の釣具店でもある。竿の作りは当時の安売りの店に置いてある物とは全く違う造りであった。それに売る時迄に煙で燻されてかっちりと身のしまった竿である。当時の店主から自慢されて買った竿ばかりだと自慢された。これらは全て昭和三十年代後半から40年代初期の竿と見た。グラス竿やカーボン竿が普及し始めた40年代中葉から後半以後ではこんな手の込んだ作りの竿は中々手に入らない。
 当時から煙で燻しては矯めて、また翌年又燻して矯めて数年かけて仕上げてから、竿を売る店はと云う店は少なくなっていた。殆どの店は前年採った竹を春先に矯めて直ぐに売る店が大半であった。これらの竿はそんな竿とは価格も初めっから異なっている。価格は二倍、三倍と中には特別良い竿ともなれば十倍以上と一線を画しているものもあった。十倍以上の価格であっても職人の手間を考えると、良い竿とは採算を度外視して売る竿なのである。だからそんな竿は、竿を十分に使いこなせる人と店主が見込んだ人で無ければ本当の良い竿は中々手に入らないのである。それでもそれらの多くは良竿であって決して名竿等ではない。美竿でも普通の釣り人達には中々手に入り難い。その当時私見たいなサラリーマンのなり立てのペーペーでは、普通の竿にランクする物でさえやっと買う事が出来る限界であった。
 今から40数年位前に買ったと想像されるこの竿たちは、当時の初任給の何倍かで買われたものに違いない。中でも三間半(6.3m)の竿は奇麗に燻されており漆に似た光沢が何とも言えない。それに竿の堅さと傷具合から想像するに何度も大型の魚との名勝負があったものと想像に難くない。次に三間(5.4m)の竿も良い竿である。二間半(4.5m)の竿と二間二尺(4.2m)はまずまず使える竿である。燻されてはおらず、これ以上矯めて鍛えたとしても決してこれ以上良い竿にはならないと思える竿である。それでも小型の二、三歳を釣る分には、充分に遊べる程度の竿と云える竿であった。
 ただ残念な事にこれらの全てが、庄内中通し竿の仕様になっていた事である。これらの竿は、二、三十年も使ってない竿でばかりであった。竿を矯めて見れば分かるがまだまだ十分使える竿がある。さんが声を掛けたのは、この度東京の娘さんの近くに移住するので、思い出ある庄内竿を捨てるに捨てられないし、「竿好きな人に竿を差上げたいから」と云う物であった。
 昔から旦那さんが亡くなると、奥さんは価値が分からないから「名竿や良竿が捨てられて行く」と云う話は幾らでもあった。後何年かしたら、良い竿だけでも何処かの博物館か美術館に寄贈したいと思っている。特に東京の釣具博物館に庄内竿が全く展示されていないと云うのは、庄内人にとっては非常に寂しい事である。